江戸時代の庶民はなぜ苗字がない?家康はなぜ大船建造を禁じた?司馬遼太郎さん「菜の花の沖」1巻から

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「菜の花の沖」は江戸時代後期を舞台にした司馬遼太郎さんの小説です。
「竜馬がゆく」をはじめとする一連の幕末ものと、大坂の陣を扱った「城塞」をのぞくと、江戸時代を舞台にした司馬さんの長編小説はこれだけ?かもしれません。

主人公が「商人」であるというのも、司馬さんの作品の中では異色。それだけ、高田屋嘉平という稀代の商人であり、海に愛された男が魅力的だということなのだと思います。

もくじ

「菜の花の沖」は江戸時代後期の偉大な海の男の物語

「菜の花の沖」の主人公は高田屋嘉兵衛(たかたや・かへえ)。

淡路島の貧しい家に生まれ、地元を追われるようにして兵庫の港に流れます。
たたき上げで航海術と海運業のノウハウを身につけ、のちに箱館(函館)を繁栄に導くなど数々の業績を上げる偉大な海の男です。

あらすじはさておき。

司馬遼太郎さんの小説に織り込まれる「歴史レッスン」が面白い!

司馬遼太郎さんの小説の面白さは、随所に「歴史のレッスン」がちりばめられていること。
年表を暗記するだけではわからない、歴史上の人物の功績、時の政権の評価などを丁寧に教えてくれるのです。

「余談ながら」をすべて集めたら最高の歴史解説書ができる?

「余談ながら」という必殺のフレーズで、歴史のレッスンが始まることもしばしば。膨大な作品群から、「余談」だけを集めたら最高の歴史の解説書ができるのでは…と思います。

日本史が面白くなる司馬先生の解説を3つ紹介

この記事では、「菜の花の沖」第1巻から、日本史を読み解く司馬さんのおもしろレッスンを3つ、ご紹介したいと思います。

まずはこちら。

徳川幕府が百姓町人に苗字を名乗らせなかった理由→
苗字はもともと「その土地の主」を表すものだから

江戸時代の農民や町人は、苗字がないのが普通でした。先祖伝来の苗字があっても、幕府がそれを名乗ることを認めなかったのです。落語の登場人物も、たいてい名前だけですね。「熊さん」「八つぁん」「与太郎」とか。

徳川幕府が武士を除く階級から苗字を奪ったのは、「お前らは土地の支配者ではない」と知らしめるためだった——というのが司馬さんの歴史解説です。

源氏、平氏、藤原氏、橘氏の「氏」は、苗字の上位概念

平安時代の京の貴族と言えば、源氏、平氏、藤原氏、橘氏。この「氏」というのは、司馬さんによると、苗字の上位概念にあたります。

伊勢に住む藤原氏が「伊藤」さんに

この4大貴族はだんだん、住んでいる地域や官職によって、苗字が分かれていきます。
例えば藤原氏の分流のうち、伊勢に住んだ一家が「伊藤」さん。加賀介という地方官を務めた人が「加藤」さん。

畠山氏や北条氏は、支配下に置いた土地の名を苗字にした

やがて公家が作った律令制の目をかいくぐって、荒くれものが手下を率いて土地を開墾し、実質上の地主になります。つまり武士です。たとえば、武蔵国男衾郡(おぶすまごおり)畠山荘の支配者が名乗った苗字が「畠山」。苗字として成立したのは畠山重忠のお父さんの頃だそうです。

源頼朝を支えた北條(北条)氏も、伊豆の田方郡北條荘を切り開いたことから、その土地の名を苗字にしました。

秩序維持のために、百姓町人から苗字を奪った徳川政権

こうした例を紹介しつつ、司馬さんはこのように解説しています。

「百姓町人には苗字を名乗らさない」という江戸幕府の方針は、原理的には苗字というものが畠山や北條のようにその在所のぬしという意味があるためであった。(中略)江戸幕府が秩序維持の方法の一つとして「苗字」の栄誉性を守ろうとしたことは、政治の妙といっていい。

徳川家康が諸藩に「五百国積み」以上の軍船建造を禁じた理由→
西国大名が、海から江戸に攻め入ってくるのを恐れたから

次の歴史レッスンは、徳川家康が作った禁令について。
家康は1609年、諸藩に「五百石積み」以上の軍船を作ることを禁じました。
当時、船の大きさは、積み込める荷の量で表しました。「五百石積み」はつまり、米を五百石詰める大きさのこと。

当時、豊臣秀頼を慕う大名がまだ多かった

1609年というと、大坂の陣の5年前。豊臣秀頼はまだ大坂で健在でした。秀頼自身は世の中のことを何も知らないボンボンでしたが、秀頼を慕う西国大名がたくさんいました。偉大な父・秀吉の威光がまだ残っていたのですね。

西国大名が反旗を翻して東海道を進撃してくる事態に備え、家康は要所要所に譜代大名を配していました。陸の守りは万全。

でも、西国大名どもが軍船を集結させ、鳥羽の港から海路、江戸を攻めてきたらひとたまりもない…
大船建造禁止令は、反家康軍が海から攻めてくる懸念を払しょくするための措置だったのです。

船の処分を指揮したのは、「水軍大将」鳥羽の九鬼守隆

家康は大船の建造を禁じただけでなく、西国大名がもつ五百国以上の大船を淡路島に集めさせて、廃棄処分にします。この仕事を担当したのは、紀州熊野の水軍を率いてきた鳥羽城主の九鬼守隆。
水軍の大将として、どんな気持ちで船をつぶす仕事を完遂したのでしょうか…。

しかも九鬼氏はその後、海から離れた摂津三田と丹波綾部に転封になり、水軍のDNAを断たれます。

この保身政策が、日本の造船技術、航海術を退化させることに…

物事には何でもプラスマイナスの両面があります。
陸上交通にはない圧倒的な機動力と輸送力を誇る大型船の建造を封じたことで、徳川幕府は反乱の芽をつぶして安定していきます。
半面、それまで蓄積され、進化してきた日本の船舶建造技術は一気にしぼんでしまいました。

室町期から秀吉の時代までは、遠洋航海が盛んだった

司馬さんによると、室町期から豊臣秀吉の治世までは、日本は遠洋航海の盛んな国でした。有力大名、寺社、商人がこぞって大海に乗り出し、フィリピン、インドシナ半島、ボルネオ、マラッカ海峡などに行っていたのだそうです。現地に日本人町まであったといいます。

しかし家康の「大船ぶっ壊せ」政策により、船の建造技術も、航海術も一気に退化し、欧米にも中国にも太刀打ちできないレベルにまで落ち込みます。

海洋技術の進歩を拒否したから、徳川幕府は265年も生き延びた

司馬さんは家康の保守的な政策に批判的です。皮肉を込めてこう書いています。

徳川幕府の政治原理は徳川家一軒を保護するという思想がいかに濃厚であったかがこの一事でもわかるが、ともかくもこの政権ほど海と船を恐れた政権もない。(中略)
むろん、家康と徳川官僚はその政治原理において成功した。前時代のような西洋式の帆をもった大船を野放しにしておけば、徳川幕府は265年もの長い寿命をもたなかったにちがいない。

江戸中期に船乗りになった高田谷嘉兵衛は、貧弱な造船技術と航海術しかない時代に、はるか北方四島まで股にかける活躍をしたわけです。苦労がしのばれます・・・!

「樽の発明」はなぜ、日本史上の画期的な出来事といえるのか?→
コンテナの発明に匹敵する輸送革命を起こしたから

「菜の花の沖」1巻では、若き嘉兵衛が「樽廻船」の船乗りとなって、灘の酒を江戸に運ぶくだりが出てきます。

樽廻船は、灘の日本酒を兵庫から江戸に運ぶ船のこと。
積み荷が酒樽オンリーだから「樽廻船」。なんでも運ぶ「菱垣廻船」と区別して呼ばれていました。

樽廻船の成立は1730年。享保15年です。司馬さんはこれを「日本史上の出来事」と評しています。

菱垣廻船は積み込み7~10日、酒専門の樽廻船は積み込み最速1日

菱垣廻船は多くの種類の荷を運ぶため、積み込みに7日も10日もかかりました。
これに対して樽廻船の積み込みは最速1日。積み荷=酒樽の規格がそろっているので、効率よく積み込むことができるのです。荷主にすれば、輸送日数が大幅に短縮できます。樽廻船を運行する輸送業者にしても、輸送日数が短縮できれば便を増やすことができ、売上がその分伸びます。

司馬さんは、樽は江戸初期に灘の酒造業者の周辺で発明されたものだろう、と推測しています。西洋には古代から樽があるけれど、中国や朝鮮にはなかったそう。つまり、東アジア圏では日本独自の発明、ということになります。

「日本のコンテナ革命」を体現した樽廻船

ちなみにコンテナは「20世紀最大の発明」とも

コンテナの発明が海運の物流効率を劇的に向上させた、という話は、技術発達史の本を読むと必ず出てきますね。コンテナは20世紀最大の発明とも言われます。
樽の発明は、それに近い輸送革命を起こしました。司馬さんはこう書いています。

樽廻船は日本で最小に出現した容器船(コンテナロール)だったといえるであろう。

以上、「菜の花の沖」第1巻から、司馬さんの歴史レッスンを3つご紹介しました!

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