「イエスという男」感想 反抗的な皮肉屋イエスの本質に迫る本

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2025年2月に亡くなった新約聖書学者・田川建三さんのベストセラー「イエスという男」。
田川さんの訃報に接し、初めて手に取りました。

この本、もっと早く読んでおけばよかった…という面白さ。

田川さんによると、長年の新約聖書研究の蓄積により、イエス自身が語った元の言葉と、後に続く弟子たちが潤色した部分の腑分けはある程度わかるのだそう。
田川さんは、聖書に残る語録の中で、イエス自身が語った可能性が高い部分にフォーカスし、当時のイスラエル世界が政治的に、宗教的に(つまりユダヤ教に)どう締め付けられていたかを紐解きながら、イエスの本音に迫ります。

聖書の言葉って、一読しても意味がつかみにくいものが多々あります。
それは、イエスの言葉が弟子たちや後世の教団により解釈され、ときに尾ひれがついて伝わったから。聖書に収録されているのは、時間の流れの中で潤色されて伝わったエピソード群です。

田川さんはもちろん、そうしたキリスト教2000年の蓄積を否定してはいません。
でも、イエス自身がそもそもどういう意図で語ったのか、が分ると、聖書の読み方が広がります。
聖書の教えを身近に感じるための本として、とてもおススメです。

なるほど、とおもったポイントをいくつか紹介します。

もくじ

「良きサマリア人のたとえ」はユダヤ教律法学者のエリート思想への批判

最初になるほどと思ったのは、「良きサマリア人のたとえ」にまつわる田川さんの分析です。

これは、イエスがユダヤ教の律法学者に議論を吹っ掛けられた時のお話。
田川さんは、ユダヤ教を批判している若者イエスがどれほどユダヤ教の教えに精通しているのか、律法学者が試したのだろう—と指摘しています。

「汝の隣人を愛すべし」はイエスの言葉ではなく、ユダヤ教の律法

まず、田川さんが指摘するのは、「汝の神を愛すべし。己のごとく汝の隣人を愛すべし」という言葉は、イエスの言葉であるかのように思われているけど、そうじゃない、という点です。
これを語ったのは、イエスの問答の相手であるユダヤ教の律法学者。「神を愛せ、隣人を愛せ」は、ユダヤ教の有名な律法(戒め)です。いわば当時の「常識」のようなものだった、と田川さんは書いています。

「イエスという男」の記述から、ユダヤ教の律法学者とイエスの会話を再現するとこんな感じです。

律法学者「ユダヤ教の律法の中で、最も重要な戒めは何?」
イエス「そんなの、立派な学者のあなたは当然知ってるでしょ」
律法学者「もちろん。汝の神を愛すべし、己のごとく汝の隣人を愛すべし、だよね」
イエス「わかってんなら、質問しなくていいでしょ。それ、本気でやってみなよ」
律法学者「じゃついでに聞くけど、私の隣人っていったい誰のことだと思う?

ユダヤ教の律法で隣人とは「選ばれたイスラエルの民」

最後の質問も、律法学者がイエスを試したいわば「挑発」です。

田川さんによると、ユダヤ教の律法学者の間では、「隣人」は文字通りの意味ではありません。律法学者がいう隣人とは「選ばれたイスラエルの民」。つまり「ユダヤ人に生まれ、ユダヤ教の律法を理解し、宗教的に正しい生活を送る者」を指すのだそうです。

この場面で律法学者はまたも、若造イエスがユダヤ教の律法をどれだけ理解しているのかを試したのです。
この挑発にカチンときたイエスが、律法学者に向けて長々と話したのが、有名な「良きサマリア人のたとえ」です。

いわく、

エルサレムからエリコにくだる街道筋で、ある人が強盗に襲われて身ぐるみはがされ、半殺しにされた。通りかかった祭司は黙って通り過ぎた。次に通りかかったレビ人も黙って通り過ぎた。
ところが、次に通りかかった旅行中のサマリア人が、この被害者に近寄り、傷にオリーブ油と葡萄酒を縫って包帯を巻き、自分のロバに乗せて宿屋に連れて行き介抱した。
さらに翌日、このサマリア人は宿屋の主人に2デナリの金を渡し、介抱を依頼した。「足りなかったら、次にここを通るときに返しますから」と言い添えて。
さて、あなたはこの中でだれが、強盗の被害者の隣人になったと思う?

イエスが語ったのは「博愛」でななく、律法学者の宗教エリート主義への批判

もちろんイエスは、ユダヤ教の律法学者がいう「隣人」の意味を百も承知でこのたとえ話をしています。
サマリア人というのは、当時のパレスチナのなかで差別されていた人たち。中央パレスチナに住んでいました。
差別していたのは、南パレスチナに住むいわゆるユダヤ人。政治的にはローマに支配されつつも、聖地エルサレムに拠って、宗教的な結束を強く持っており、それだけに「民族意識があくどいまでに強かった」と田川さんは指摘しています。

田川さんの分析では、イエスが指摘したのは、こういうことです。

隣人の範囲を限定するということは、外側にいる人を差別することと同じ。
隣人に線を引くようなことはやめなって。
相手がだれであれ、自分の方から隣人になればいいじゃんか。

イエスは「良きサマリア人のたとえ」を持ち出すことで、博愛を説いたというよりも、ユダヤ教律法学者の鼻持ちならない「宗教エリート主義」を批判したのだ、というのが田川さんの分析です。

イエスはこのような「逆説的反抗」を当意即妙な言い回しで繰り返していた、そして「反抗者」だったからこそ殺された、そして、殺された後に祭り上げられ、時に体制側に取り込まれて、キリスト教は2000年続いてきた—。「イエスという男」の冒頭は、田川さんのこのような分析で幕を開けます。
この本がもつワクワク感が、少しは伝わったでしょうか。

「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に」はユダヤ教の搾取への批判

これも、一見すると意味が取りにくいイエスの言葉ですね。
浮世の政治権力に振り回されるかもしれないけど、信仰ってやっぱり大事だよ、という意味なのか
と思っていましたが、田川さんの分析は違います。

田川説「政治と信仰は分けて考えよ」ではなく「税金問答」

田川さんは、「キリスト教徒は2000年にわたって、”政治のことは政治に任せ、信徒は信仰に励みなさい”という意味だと解釈してきたが、そうじゃない」と指摘しています。

もっと現実的な「税金問答」だというのです。

ローマ皇帝に税金を支払うことを、あなたは正しいと思っているか」という問いは、当時のユダヤ人の間でしばしば繰り返されていた議論なのだそうです。

ローマ帝国による「人頭税」とユダヤ教会による「神殿税」

というのも、ローマ帝国はそれまで、イスラエルのヘロデ王家を通じてイスラエルを間接統治していたのですが、紀元6年、王の失脚に乗じて直接支配に乗り出します。対象はユダヤ地方、サマリア地方。
(ガラリヤ人イエスはこのころ、まだローマ帝国に直接税金を支払う必要はなかったそうです)
ローマ帝国は住民台帳を作り、ユダヤ人一人ひとりから「人頭税」を絞り上げます。
この政策に対する反感が渦巻いていたのが当時、イエスが活動していたユダヤ地方です。

とはいいながら、ユダヤ人はそれ以前から、もう一つの強大な権力によって「搾取」されていたのです。
ユダヤ地方に住んでいようと、サマリア地方に住んでいようと、ガラリヤ地方に住んでいようと。
その権力とは、ほかでもないユダヤ教会。具体的には、エルサレムの神殿を中心とする宗教貴族のことです。

成年に達したユダヤ人は、どこに住んでいようと毎年、「神殿税」を納めされられていました。
さらに、神殿には全収穫物の10分の1を献上しなければいけませんでした。ユダヤ教の総本山・エルサレム神殿は、金もモノも掃除機のように吸い込んでいたのです。

イエスの真意は「ユダヤ教会もたんまり搾取してんだろ?」

イエスの「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に返しなさい」は、以上のような前提に基づいた「醒めた皮肉」です。

再び、「イエスという男」の技術に基づいてイエスと「パリサイ派」の会話を再現するとこうなります。
ちなみに「パリサイ派」はユダヤ教の伝統主義的な一派のこと。

パリサイ派「あんた、ローマ皇帝に税金を払うのってどう思う?」
イエス「あんたたちが税金を払うのに使ってる通貨を持ってきてみな」
—パリサイ派が示したのはローマのデナリ貨幣。2代皇帝ティベリウスの像が掘ってある。異邦人の偶像が掘ってあるから、ユダヤ教のエルサレム神殿への献金には使えない。神殿の境内で両替して、古い貨幣に替える必要がある。
イエス「これさ、ローマ皇帝の貨幣じゃん。皇帝の物なら皇帝に返せば。ユダヤ教の神には、神の物を返してんだから」で

言外には、「ユダヤ教のエリート層だって、おれたちから搾取してるよね?それを棚に上げてさ、ローマ皇帝の課税に文句言うのって、どうなの?」というユダヤ教の宗教貴族への怒りと批判が込められています。

田川さんはこう指摘しています。

イエスは、ローマ支配を批判しつつ、自分たちの宗教的社会支配を温存させているエルサレムの宗教貴族や、民族主義者の律法学者に我慢がならなかったのだ。(中略)宗教的社会支配に圧しつぶされてきた人間の呪詛がここでは語られている。

怒れる男、イエス。ユダヤ教世界の不条理に対するその怒りを、ひねりの効いた言葉でパッと表現できるところが、この人の異能の一つだったのですね。

ほかにも、なるほど!と思わせる分析は多数ありますが、書ききれず。
ぜひ「イエスという男」を手に取ってお読みください。

最後に イエスの言葉の「潤色」「解釈」は宗教活動そのもの

田川さんは、イエスの言葉の真意に迫ったことで、キリスト教関係者からずいぶん疎んじられ、時には「出入り禁止」にもなったそうです。

でも、田川さんは、イエス死後の信徒たちが教祖の言葉を「潤色」したことについて批判しているわけではありません。後世の人たちの解釈によって、教祖の言葉の捉え方が変化していく、ということは、どんな宗教にもあることでしょう。

その時々の宗教指導者が、教祖の言葉を独自に解釈することによって、同時代に生きる人たちにポジティブなメッセージを送る、という営みは、宗教活動そのものです。キリスト教2000年の営みを田川さんが否定しているわけでは決してない、ということは忘れてはいけないと思います。

なにせ田川さん自身、れっきとしたクリスチャンなのですから。

「イエスという男」が文庫化・新書化されない理由

ちなみに「イエスという男」は文庫化・新書化されていません。
イエスという男の人生は、ペラペラで安価な本で語ってよいものではない、そんな風にイエスが消費されるのはいたたまれない」という田川さんの信念によります。電子書籍化もされていないようです。

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