「はじめて読む聖書」は、雑誌「考える人」の連載がベースです。学者や作家ら計9人が、自分が聖書に触れたきっかけや「聖書をどう読んできたか」を書いた随筆のまとめです。ただし田川建三さんのパートだけは、インタビューの採録です。
印象に残った個所を書き記します。備忘録代わりに。

レヴィナスの教え「人間は、神の助けなしに成熟できるはず」(内田樹さん)
「はじめて読む聖書」に登場する寄稿者の一人、内田樹さんは、戦後のユダヤ教の指導者エマニュエル・レヴィナスの歩みと教えを通して、旧約聖書から「神の意志」をどう読み取るかを解説しています。
レヴィナスは、ナチスによるユダヤ人虐殺の時代を生き延びた人
レヴィナスは1906年リトアニア生まれ。フランスで哲学を学んだあと、第二次世界大戦初期に召集され、捕虜となり、戦後まで収容所で過ごします。
解放されてリトアニアに帰った時に初めて、ほぼすべての親族が、ナチスによりアウシュビッツで殺されていたことを知る—という強烈な体験をした人です。
ナチスによって殺されたユダヤ人は600万人といわれます。戦後、ナチスの迫害からかろうじて生き残ったユダヤ人の中には、「神は同胞を救ってくれなかった」として、ユダヤ教から離れていく人も多かったそう。
レヴィナスは、ユダヤ教の指導者として歩み始め、ユダヤ教思想のアップデートと、崩壊しかかったユダヤ人コミュニティーの再興を図ります。
「人間の世界の不義と不正をただせるのは人間だけ、だから成長せよ」
レヴィナスがたどり着いた思想が、これです。内田樹さんが書いたものを引用します。
「神は、紙の支援ぬきで、自力で、弱者を救い、病者をいたわり、愛し合うことができ、正義を実現できるような、そのような可能性を持つものとして、われわれ人間を創造した。人間が人間に対して犯した罪は、人間によってしか贖うことができない。神は人間にそのような霊的成熟を要求するのである」
「人間の住む世界に正義と公正をもたらすのは神の仕事ではなく、人間の仕事である。世界に不義と不正が存在することを神の責めに帰すような人間は霊的には幼児である。私たちは霊的に成人にならなければならない」
死ぬほどつらくても生きろ、成長しろ…とてもシビアな「現世肯定」
宗教って、大雑把にわけると「現世否定」と「現世肯定」があります。
たとえば「厭離穢土、欣求浄土」というスローガンを掲げる浄土宗は、現世否定。
けがれたこの世を嫌悪せよ、清らかなあの世で生まれ変わることを願うべしーと言っているわけですから。
免罪符を買えばあの世で幸せになれるよ、と触れ回っていた中世カトリックも「現世否定」の部類かもしれません。
レヴィナスの教えは「この世がどんなに不条理でも、あきらめるな」「不正や不義を克服できるだけの成熟の可能性が、人間にはあるのだから」と言っている点で、とてもシビアな現世肯定といえそうです。凄惨な目にさんざん遭ってきた同胞の生き残りに向けて、「生きろ、成長しろ」と𠮟咤激励しているようです。
宗教の役割が、人々になにかしらの希望を感じさせることだとしたら、やはり「現世否定」よりも「現世肯定」がいい。そうじゃないと、人間は成長への意欲を失ってしまう。私はそう思います。
私も、どう生きるべきか、どう生きるべきだったかを迷う中でこの本を手に取りました。
内田樹さんが紹介したレヴィナスの教えが胸に刺さったので、書き残すことにしました。
それにしても、レヴィナスの教えは、とても厳しいものです。「神の救いなどない」「神は人間を創造したけど、もうわれわれのそばにはいない」「人間の社会は、人間次第」と言っているわけですから。

田川建三さんが語る「幸いなるかな、貧しい者」に込められた逆説
この本の中で、田川建三さんのパートだけは、寄稿文ではなくインタビュー形式です。
「考える人」の編集部が、田川建三さんの話をどうしても聞きたかった、という熱意がひしひしと伝わる内容です。
田川建三さんがザイールで見た貧困の現実
印象に残ったのは、田川建三さんがザイールの大学で教えていた時代の話。
当時、田川さんはアンゴラ難民のダヴィドという野菜売りの男と親しくしていました。
ダヴィドには同じ野菜売りのお兄さんがいて、子どもが4,5人いた。このお兄さんがしばらく姿を見せないから、ダヴィドに「お兄さんはどうしてる?」と聞くと、結核で亡くなったと。
ダヴィドは自分の子どもたちに加え、亡くなった兄の子どもたちも引き取って育てていました。
そんなダヴィドも姿を見せなくなった…。
ある日、やせ細ったダヴィドが野菜を担がずに田川さんのもとを訪れます。以下、田川さんの言葉の引用です。
自分も結核になった。野菜を担ぐ体力がなくなったので、もう来れない、申し訳ないと、私のことを心配してくれている。見たところもうひどくやつれてるので、もう助かるまい、と思われましたけれども、百ザイール、当時の私の給料の半分を渡して、「お金をあげるのは失礼だけれども、早く病気を治して、このお金の分だけ私のところに野菜を届けてくれたらいい」と申しました。彼は「だったらこれは預かります」と言って、なごりおしそうに帰っていきました。それが最後でした。
貧しい者が幸せなわけがない、それは当然
そんな貧困の中で生きるザイールの神学生たちに、田川さんは講義の中で問いかけます。
聖書の「幸いなるかな、貧しき者」という一節について。
「あなた方は本当に貧しいものは幸いであると思っているのか。あなた方はキリスト教の牧師や教師になるんでしょう。それで本当に貧しいものは幸いだと思うのですか」
その場の学生全員が「ノン(いいえ)」と答えます。
そこで田川さんは、この一節に込められた意味を、貧困を辛さを身に染みて知っているザイールの神学生にむかって語り掛けます。
「もし誰かが祝福されるなら、貧しい者を除いて、誰が祝福されていいのか」
もちろん、貧しい者が幸いであるわけがない。そしてこう続けます。
しかしそれなら、幸いなのは豊かな者だけなのか。そうであってはならない。この世でもし誰かが祝福されるとすれば、貧困にあえぐ者を除いて、誰が祝福されていいのか。この言葉には、そのようなイエスの思い、私の言い方で言えば逆説的反抗者としてのイエスの思いがこもっている。そういう話をしたんです。
「幸いなるかな、貧しい者」は、その文字面だけでは真意が読み取れません。
なるほど、この一節は反語的表現だったのだ…田川さんのザイールでの体験に基づくこの言葉に触れて、聖書の難解な一節がすっと心の中に入ってくる気がしました。
ちなみに田川建三さんの代表作「イエスという男」にも、ザイールの話はここまでくわしく書かれていないので、「はじめて読む聖書」のこのくだりは貴重な記録だと思われます。

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